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This is a Japanese translation of “'Future risks' chapter of The Precipice, Introduction and 'Pandemics' section

日本語版、Introduction to Effective Altruismの日本語教材の一部として、著者に特別に許可をいただき、『The Precipice』の日本語訳を行いました。著者、本の詳細についてはこちら。本の購入はこちらへアクセスください。

第五章
Future Risks

科学の輝く翼に乗せられて、暗黒の時代が再び訪れるかもしれない。石器時代が再び訪れるかもしれない。人類に絶大な物質的な富を降り注がせたものが、人類に完全破壊さえもたらすかもしれない。

ウィンストン・チャーチル

今こそ、水平線をじっと見つめ、二十一世紀にはどんな可能性が潜んでいるのか考えてみよう。未来の可能性は、距離に隔てられ、はっきりと捉えてみることができない。どのテクノロジーが可能となっているのか、それが成熟の時を迎えたとき、どのような形をとるのか、どんな世の事情が背景にあって、それが導入されるのであろうか。新テクノロジーに囲まれた状態になるまで、答えはベールに包まれたままなのかもしれない。どんなに優れた専門家や技術の発明者であっても、技術革新には不意をつかれることだってある。

1933年ある夜、原子科学の世界的権威であるアーネスト・ラザフォードは、「原子力を利用することはばかけている」と言い放った。その翌朝、レオ・シラードは核連鎖反応を発見した。エンリコ・フェルミは1939年、シラードに「核連鎖反応は まだ遠い未来の可能性だ」と告げた。だがその4年後、世界初の原子炉の計画にフェルミ個人が自ら監督を務めていた。驚くばかりの優秀な科学者らが揃って、空気よりも重いものの飛行は不可能、あるいは数十年先の未来にしか実現されない、と予期したのにもかかわらず、それが裏切られることはもはや典型的な例なのかもしれない。だが、ウィルバー・ライト彼自身もそれは少なくとも50年先のことだと考えていたことを知る人は少ない。飛行機を発明する2年前のことである。

だからこそ、私たちは新しいテクノロジーがいかに早く実用化されるかをよく心に留めておかなければならない。技術的に不可能であるとか、実現は遠い未来の話だから心配しなくても良いという声には用心しておくべきだ。優れた科学者達による自信満々の非難を受けて、技術に疑いを持つことはあっても、それを盲信してはならない。過去の実績がそう示しているのだから。

もちろん、反対の例も挙げるときりがない。「このような新技術が間もなく誕生するであろう」と科学者や技術者が公言していても、実際は数十年後の話だったという場合や、そもそも実現しなかった場合、予期しなかった形で実現した場合などさまざまな事例がある。だが問題は、大抵の場合で予測よりテクノロジーの到来が早いことではない。要は、それが案外すんなりと実現することもあるということで、100%あり得ないとか、遠い未来の話で心配に及ばないと決めつけることに警戒すべきなのである。

そうは言っても、誤った方向へと傾いてはいけない。つまり、未来のことは知りようがないからとそれを言い分に、危険を無視するべきではない。言えることもあるのだ。例えば、人類がさらなる力を得るために行う技術開発が今世紀まで連綿と続いていなかったとしたら、それは驚きに値する。人類がかつてないほどの大きな力を手にしたことが、二十世紀の人為的リスクを生じさせたことから、次世紀でも同じような、あるいはそれ以上のリスクが存在しないはずがないのだ。

当章は、未来をテーマにしているが、どのようなテクノロジーがいつ生み出されるかというような、少なくとも一般的な意味での未来予測に従事するものではない。代わりに、可能性と確率をもとに未来予想図を描こうと思っている。未来のテクノロジーは人類の存亡リスクをもたらすのか?それらが現実となった場合に備えが必要なほど実現し得るテクノロジーなのか?これらを検討する上で、将来の出来事を知っておく必要はない。将来起こりうる出来事の確率を正確に数値化する必要もない。将来やってこようとしている脅威の形をとらえるために、これらの確率をおおよその見当をつければ良いのだ。そうすれば、未来の景色とともに、未来にむけて備えるべきことが見えてくる。

新しいテクノロジーは、多くが暮らしに役立つもので、なかには驚異的なものもある。技術的進歩は今日の人類に繁栄と長寿をもたらした源泉の一つである。極度の貧困は世界の基準ではなく、むしろ例外となり、人々の寿命は産業革命以来二倍にも延びた。実際、何世紀にもわたって、新テクノロジーの裏側の危険を上回る恩恵の数々を享受してきたことがわかる。こうして人類が手にした健康や富という壮大な利潤は、すべての弊害を含めた総合的なものである。

少なくとも、ほとんどのリスクについてこう主張できる。起こり得る一般的なリスクにおいては、大数の法則に従って、予測不可能である次の発生を、長期的な平均発生率として参考にすることができる。一般的なリスクは、私たちがそのリスクを受け入れられるほどに、利益がリスクを上回っている。しかし、このような有益な状態が当たり前なのか、それとも、数回の試行の中で、単に運良くサイコロ目が出ているだけかもわからない。例えば、核戦争が起きるリスクは、近代技術がこれまで人類に与えてきた利益のすべてを上回るほど深刻なものであることも想像できる。

百年先のことを考えれば、私たちの最大の関心事は、テクノロジーによる日常的リスクやマイナス面ではなく、人類が絶滅し、またその損失を埋め合わせることができない数少ない事態が引き起こされるかであるはずだ。

私は幼い頃から、テクノロジーに強く希望を抱いていた。もし、それに破局的リスクがつきまとわなければ、今もそうあり続けたであろう。代わりに、私は相反する見方をせざるを得なくなった。技術開発を止めるべきだとは一瞬も思わない。実際、政権の善意によって技術が永久に凍結されれば、人類が可能性を最大限発揮する機会は奪われ、それ自体がおそらく存亡的破局と呼ぶべき事態を招く。

テクノロジーの進歩に伴い、それを取り扱う私たちも成熟しなければならない。テクノロジーの進歩による恩恵を確かなものとしていくためにも、開発は継続するべきである。しかし、その過程には十分注意しなくてはならない。必要に応じて、技術から得た収益の多くを潜在的危険に充てることで、その技術が人間にとって有益なものであり続けるようにしていかなくてはならない。先を見据えて、潜在的危険を把握しておくことが重要な一歩なのである。

パンデミック

1347年、ヨーロッパに死が訪れた。それは、クリミアの都市、カッファから侵入し、攻撃をしかけるモンゴル軍によってもたらされた。逃亡した商人らはそれを無意識にイタリアへ持ち帰った。そこから、フランス、スペイン、イギリスへ拡大した。さらに、ノルウェー、ヨーロッパ全土に拡がり、遠くモスクワまで到達した。6年も経たずに黒死病は大陸を呑み込んだ。

何千万という者がこの病にかかり、さまざまな症状を抱え、重病になった。ある者には首、脇の下、大腿部に横痃が出現し、ある者は皮下出血から皮膚が黒色化し、 またある者は喉、肺の壊死性炎症により喀血した。どれも発熱、身体的衰弱や消耗、身体から滲み出る耐え難い悪臭を伴った。死者の多さから大量の墓を掘る必要に迫られたが、それでも遺体を埋葬する場所すらなくなった。

黒死病はヨーロッパ中を荒廃させた。6年間で、ヨーロッパ人口の4分の1から半数が死亡した。中東も痛ましい被害を受けた。エジプト人とシリア人の3人に1人がペストで命を落とした。中央アジア、インド、中国も荒廃した。十四世紀の記録はほとんど残っておらず、正確な死者数を知ることはできないが、世界人口の5%から14%が死亡したという説が有力である。人類史上最大の大惨事に匹敵する可能性がある。

今このような災いが襲いかかってきたら、私たちは身を守れるのだろうか?それとも以前より脆弱になってしまったのであろうか。パンデミックは人類の未来をも脅かすのだろうか。

黒死病は、人類史に爪跡を残した唯一の生物学的災害ではなかったし、唯一の大腺ペストでもなかった。541年、ユスティアヌスのペストはビザンツ帝国を行き詰まらせた。そして、3年間で世界人口のおおよそ3%の命が奪われた。

ヨーロッパ人がアメリカ大陸へ到達した1492年、ヨーロッパ人と現地住人は互いにこれまで経験したことのない全く新しい病にさらされることになった。彼らは祖国の病気には何千年とかけて耐性がついていたが、それ以外の病気にはひどく影響を受けやすかった。病の交換により、現地住人は、はしか、インフルエンザ、また何より天然痘によって以前よりはるかに過酷な状況に置かれた。

その後百年で、侵略と伝染病によって甚大な犠牲が出た。実際の犠牲の規模は、それ以前の人口が大いに不明なため、明らかになることはないだろう。この世紀にアメリカ大陸の人口の90%以上が失われた可能性も拭えない、また90%よりずっと少ない可能性もある。このうち、感染症ではなく、戦争や占領による犠牲がどれほどを占めているのか知ることは難しい。おおよそ上限として、コロンブス交換により世界人口の10%が命を落とした可能性がある。

数世紀が経過し、世界はより密接に繋がり、地球規模のパンデミックが起きる可能性は現実味を帯びてきた。第一次世界大戦が終わりを迎えようとしていた頃、破壊力の強いインフルエンザ株(1918年インフルエンザ、あるいはスペインインフルエンザとしても知られる)が、6大陸に蔓延し、遠隔の太平洋諸島にまで拡大した。少なくとも世界の3分の1が感染し、人口の3%から6%が死亡した。その数は、第一次世界大戦の死者数を超え、恐らく第二次世界大戦を合わせてもそれを上回るほどであった。

だが、このような災いでさえ人類の長期的可能性を脅かさなかった。腺ペストにより、被災地の文明は低迷したが、回復することができた。地域人口の25%から50%が失われたというのに、それは一大陸の文明崩壊を引き起こさなかった。いくつかの帝国の命運を分け、またこれにより歴史の流れが大きく変化したのかもしれない。だが、この規模の災いに文明が持ち堪えたという事実は、今後このような大勢の死者を伴う災いが起き、またそれが世界全体で起きたとしても、人類は生き残ることができると信じる根拠を提示している。

スペインインフルエンザの世界的大流行は、地球規模だったにもかかわらず、世界の成長の目立った停滞が見られなかった点で、注目に値する。一方、第一世界大戦の勃発により成長は失われたようだ。第一次世界大戦は、パンデミックほど死者は多くなかったものの、歴史の流れにはるかに大きな影響を与えた。

詳細な記録が不足し、原因が交錯しているため、コロンブス交換から何を教訓とすべきなのかは、一概には言えない。パンデミックは、地域的な文明崩壊を引き起こした原因の一つであったことには間違いがないが、暴力や帝国の支配なしに、このような結末を迎えていたのかは知る由もない。

自然発生的パンデミックが人類の生存を危ぶむ規模のリスクではないことを示す最も有力な根拠は、化石記録の議論である(第三章を参照)。自然災害による人類の存亡リスク(一世紀あたり0.1%未満)は、人類や類似の種が存続してきた事実と両立しない。このような主張は、長期的に確率が変わらないか、もしくはそれより低くなっている場合にのみ成り立つ。身の回りのほとんどのリスクにこれが当てはまるのだが、パンデミックについては違う。人類はこのリスクを引き上げる多くのことを行ってきた。パンデミックの発生確率を高めるものもあれば、またそれによる被害を拡大するものもある。したがって「自然発生的な」パンデミックでさえも、部分的には人為的なリスクだとみなすべきなのである。

現在の世界人口は、人類史上ほとんどの時代と比較しておよそ千倍の規模にまで膨らみ、新感染症が発生する確率は大いに高まった。私たちは、私たちの生活場のすぐそばで、多くの動物を健康に悪い環境下におき飼育している。感染症の多くは、人間に移る前に、動物が感染し、感染した動物から人間に感染するため、これはリスクを高める行為なのである。例えば、HIVはチンパンジー、エボラ出血熱はコウモリ、SARSは(恐らく)コウモリ、インフルエンザは(通常)豚か鳥を経由して人に感染した。動物から人へ感染する病の比率は上昇傾向にあることが証拠により示唆されている。

近代文明は、パンデミックを拡大しやすくしているのかもしれない。都市部への人口の集中は、感染者個人が大勢に感染させる状態をつくりだしている。高速の長距離移動手段があるお陰で、病原体が拡散する範囲は広がり、これは集団間の隔離を困難としている。また、人類はもはや過去一万年のようにそれぞれで独立して生活を営む集団同士ではない。これらを総合的にふまえると、今後より多くの感染症の世界的大流行が起きる可能性があり、それもより急速に、より広範に拡大することが考えられる。

だが、私たちは守りの面でも変革を起こしてきた。健康は増進し、衛生管理は改善され、予防や治療に役立つ新薬を手に入れ、病気の原因を科学的に解明した。また、最も重要なのが、新感染症発生時に対応できる公共衛生機関が存在していることで、世界的な情報伝達や協力が可能となっていることである。これらに私たちの命が守られていることは、過去百年で地域特有の感染症が劇的に抑制されたことからもわかる(パンデミックが常に同じ経過を辿るとも限らないが)。最後に、人類は哺乳類がかつて経験したことのないほどに多様な地域、環境下で暮らしており、これが人類絶滅に至らせる災いから人類を守ることにつながっている。なぜなら、病原体は様々な環境で繁殖し、例外的に孤立した集団(例えば、人との接触のない部族や南極大陸の研究者、原子力潜水艦の乗組員など)にまで到達しなければなくなるからだ。

これらを総合的にみたときに、パンデミックによる存亡リスクは増大したのか、または縮小したのか判断することは難しくなる。前にパンデミックによる存亡リスクは小さいと裏付ける強力な論拠を確認していたのに、今はそうではない。この不確実性は、結局のところ、悪い知らせなのである。しかし、私たちの関心は単に変化の方向性だけではなく、変化の大きさに向く。化石記録を根拠とした場合、パンデミックが人類を絶滅させるリスクが一世紀あたり2,000分の1以下であると考えることができるが、これがせめて1%のリスクとなるには、現在リスクが20倍にも膨れ上がった状態にあるということであり、現状と照らし合わせるとそうとは考えにくい。私は、化石記録こそが「自然発生的」パンデミックが人類の存亡リスクの一つではないことを指し示す有力な証拠だと思っている。これにより自然発生的パンデミックが存亡リスクではないと仮定するのなら、他に考えられる筋書きは、永久的崩壊の脅威からくるものであろう。全世界の文明を崩壊するようなパンデミックが発生し、文明の再建が困難となってしまうか、あるいは不運に見舞われ、再建の道が閉ざされてしまうかの筋書きが考えられる。

しかし、人類はもっと大きな役割を果たすことだってできる。私たちの行動が間接的にパンデミックを発生しやすくさせたり、流行を拡大させたりする例を見てきた。だが、人類がより直接的に手を出した場合はどうだろうか。わざと病原体を利用したり、改良したり、つくり出したりしたら──?

人類が病原体の性質を理解し、管理し始めたのは、ごく最近の出来事である。大流行が起こる根本的な原因は200年前まで理解されていなかった。西洋で最も有力だったのが、瘴気(しょうき)説であり、一種の毒気により病気に感染するというものであった。それからたった二世紀後、多種多様な微細な病原体が原因であることが発見された。そして、病原体の実験室培養、選別育種、ゲノム配列の解析、ゲノム編集、遺伝コードをもとに機能をもったウイルスを作成する方法を見つけ出したのだ。

このような進歩は急速なペースで続いている。クリスパー(CRISPR)を利用し、新しい遺伝子配列を効率的にゲノムに導入したり、また遺伝子ドライブを使って、自然界に存在する生物の個体群を効率的に遺伝子組換えされたものと置き換えたり、ここ十年で質的にも大きな変革が起きている。躍進ぶりは多方面から観測できる。ゲノム解析にかかる費用は2007年以来1万分の1までに落ち、公表文献やベンチャーキャピタルの数は急速に伸びている。克服できそうにない課題が立ちはだかっているわけでもなく、さらなる開発を抑制する基本的な法律が存在しているわけでもない。バイオテクノロジーの進歩は、すぐには衰えそうにない。

この領域においては、過去の事例はほとんど安心材料とならない。自然の能力を超えていくための試みであるため、長年の記録は必要とされない。この未知な領域に、私たちにとって馴染み深い類の危険しか転がっていないと考えるのは楽観的な見方だろう。

悪意ある行為から生じるリスクは脇に置いて、善意を持った研究から生じるリスクについて、まず向き合ってみる。ほとんどの科学・医学研究は、目的とする範囲において、害を及ぼすリスクは無視できるほど小さい。だが、世界的に脅威となることで知られる種の生きた病原体を扱う研究も一部行われている。スペインインフルエンザ、天然痘、SARS、鳥インフルエンザ(H5N1)などである。このような研究のごく一部で、感染力や致死性、ワクチンや治療に対する抵抗力を高めた、自然界に存在しているものよりもはるかに危険な菌株が作り出されている。

2012年、オランダのウイルス学者、ロン・フーシェは、H5N1型鳥インフルエンザ機能獲得の実験結果の詳細を発表した。このインフルエンザ株の致死率は恐ろしく高く、感染者の60%が死亡したと推定され、これはスペインインフルエンザをはるかに上回る。だが、人から人へは伝播しないため、パンデミックの発生はこれまで免れてきた。フーシェは、この株が自然にその機能を獲得するのかどうか、もし獲得するならどのようにそれが起きるのか調べようと思った。10匹のフェレットを実験に用い、インフルエンザが人にどのような影響を与えるか調べる通常の手法で、フェレットからフェレットへと感染させた。最後に感染したフェレットで変異が起き、H5N1は哺乳類間で直接感染するようになった。

この研究は激しい論争を巻き起こした。その多くは彼の研究に含まれる情報に焦点を当てていた。米・バイオセキュリティに関する国家科学諮問委員会は、悪者がパンデミックを企てないよう、彼の論文を公開前に技術的詳細をいくつか取り除かなければならないという判断を下した。オランダ政府は生物兵器への悪用が懸念される情報の輸出に関するEUの規制を侵したと主張した。しかし、ここで私が懸念しているのは、技術が悪用される可能性ではない。善意を持った科学者が地球全体を脅威に晒す病原体の破壊能力を高めてしまったということだった。フーシェの研究は、その明確な事例である。それだけではない。まさに同じ年にアメリカでも同じような実験が行われていたのだった。

勿論、このような実験は、厳しい安全基準を満たした研究所で行われる。いかなる場合も強化された病原体が漏出する可能性は極めて低い。だが、どれほど確信をもってそう言い切れるのか。残念なことに事故率や露出率に関する情報は透明性に乏しく、頼れる情報がない。これは十分に情報を得た上で、リスクとベネフィットを秤にかけ、意思決定する機会を社会から奪っている。研究所も他者の失敗から教訓を得ることができない。他セクターのベストプラクティスに習った一貫性と透明性が保たれた事故報告を私たちは必要とする。また、信頼を裏切るような事故や流出が起きた場合は、真剣に責任を追及するべきだ。

継ぎ接ぎした証拠をもとに、確認することができた事例だけをとってみても、病原体の流出する可能性は心配になるほど高い(コラム:注目に値する「研究所漏出」事故を参照)。ここに挙げた流出事故が存亡的破局に至らせることはなかった。しかし、これらの事故は極めて危険な病原体の安全管理に深刻な欠陥があったこと、また未だに体制が不十分であることを示している。

同じような事例が、バイオセーフティの最高レベルであるBSL-4に分類されるケースにさえ見受けられる。2001年、イギリスは家畜の口蹄疫の壊滅的被害に見舞われた。さらなる拡大を防ぐために600万もの動物が殺処分され、その被害額は80億ポンドに上った。その後、2007年、再び口蹄疫が発生し、その原因元が口蹄疫を扱う研究所であったことが判明した。口蹄疫は最高レベルの病原体として最高レベルのバイオセキュリティ確保が要求されていた。それにもかかわらず、ウイルスは管理がずさんだったパイプから漏れ出し、地下水へと流出した。調査の結果、研究所の免許は更新されたが、二週間経って、再びウイルスが流出した。このような実績から察するに、スペインインフルエンザやそれ以上の規模の世界的なパンデミックを引き起こす危険性のある病原体を取り扱うには、それが機能獲得を伴う研究である場合は特に 、BSL-4の条件も不十分なのではないかと考える。(危険極まりないH5N1機能獲得研究さえBSL-4施設で行われていなかった)。BSL-4施設を起源とする最後の公認事故から13年が経過したが、これで十分とは言えない。基準、検査、運転体制、罰則のいずれかが十分でなかったことに事故の原因があるということの問題ではない。問題は現場に事故歴があり、透明性と責任追及が欠落していることが、さらに問題を悪化させているということなのである。既存のBSL-4施設からパンデミックの病原体が漏出するのは時間の問題だ。

このような事故に並び、病原体の悪用もまた脅威である。人類には、長い間病気を兵器利用してきた暗い歴史がある。その記録は紀元前1320年に遡る。小アジアでの戦争で、野兎病を患わった羊を国境を超えて渡らせ、野兎病を拡散したとする記録だ。また、ヨーロッパに黒死病がもたらされたのは、モンゴル軍がペストに感染した死体を城壁から投げ入れたことに始まるとする、カッファ包囲戦の当時の証言もある。これが本当に起こった出来事なのか、この出来事が起きていなかったら黒死病がヨーロッパに到達していたのかどうかについてはわかっていない。しかし、歴史上(人類史のごく一部として)最も多くの死者を出した出来事が、生物兵器により引き起こされたかもしれないという疑いは未だに払拭できてない。

注目に値する「研究所漏出」事故

1971年:天然痘

ソ連の生物兵器研究所は、アラル海の島で兵器化した天然痘菌株の試験を行なった。試験中、近くの船の乗組員に誤って感染させ、そこから上陸した。10名が感染し、3人が死亡した。集団検疫とワクチン接種プログラムにより封じ込めを行った。

1978年:天然痘

1967年、天然痘で年間100万人が命を落としていた。1977年に英雄的努力が実を結び、天然痘感染者はゼロとなり、人類は古来の災いから解放された。だがその1年後、天然痘は墓場から蘇らせられた。イギリスの研究所から病原体が漏出し、事態が食い止められる前に1名の死亡者と1名の感染者を出した。

1979年:炭疽病

ソビエト連邦の大都市スヴェルドロフスクにある生物兵器研究所が、清掃のためにエアフィルターを取外した際、兵器化した炭疽菌を誤って大量に放出した。この事故により、66名の死亡が確認されている。

1995年:兎出血病

オーストラリアの科学者たちは、野ウサギの個体数を管理するべく、ある小さな島で新しいウイルスを試験散布した。しかし、このウイルスは検疫をすり抜け、本土に到達し、わずか数週間で3,000万羽のウサギが死亡する結果を招いた。

2015年:炭疽病

ダグウェイ実験場は、1942年に米軍が化学・生物兵器の研究目的に設立した施設である。2015年、生きた炭疽菌の胞子を含むサンプルを8ヵ国にまたがる192の研究所に誤って配布し、不活性化炭疽菌を受け取ったと勘違いされる事件が起きた。



 

生物兵器にまつわる初期の揺るぎない記述の一つは、1763年カナダにいたイギリス人によるものだった。北アメリカの植民地を統括する総司令官であったジェフリー・アマーストが天然痘の発生に苦しんでいた要塞にあてた手紙に以下のように綴っている。「天然痘を不満を抱くインディアン部族に送るよう仕向けることはできないか。この際あらゆる策略を使って、彼らを掃討しなければならない。」駐屯地の指揮官もすでに同じ考えを持ち、自発的に行動していた。天然痘に汚染された品々を配布し、その功績を文書化し、使用した毛布やハンカチの費用を公費で負担するよう申請した。

初期の軍隊の病気に対する理解は限られたものであったため、時機を見計らってそれを利用するくらいだった。現在は理解が深まったため、近代国家は自然が授けるものを基に、さらに発展させることができた。二十世紀には、アメリカ、イギリス、フランスを含む15の国が生物兵器プログラムを開発していることが知られている。

最大の生物兵器開発プログラムはソビエトによるものだった。最盛期には12を超える秘密研究所があり、ペストから、天然痘、炭疽病、野兎病まで様々な病気の兵器化を行うために、9,000名以上の科学者が雇われていた。彼らはこれらの感染力、致死率、ワクチンや治療に対する抵抗力を高めようと試みた。また、これらを敵にばらまくシステムを構築し、病原体を大量に備蓄した。その量は天然痘とペストで20トンを超えると言われる。当事業は事故を起こしがちで、天然痘と炭疽病の発生により死亡者を出した(前段の表を参照)。全人類を脅威にさらすような病原体を作り出そうとする試みがあるのか証拠はない。しかし、「抑止力」や「相互確証破壊」といった理論が、超大国や、ならずもの国家をいつかその方向へ突き動かすかもしれない。

こうして生物兵器に手を出していながらも、(黒死病が自然に起きたパンデミックだとして)事故や使用による死者が少ないことはよい知らせだ。同じ一定期間内でこれまでに確認されている生物兵器による死亡件数は、自然に発生したパンデミックによるものと比較してごく一部にとどまる。確かな理由は不明だ。一つに、生物兵器が不安定な性質を持つことや、当事者に被害が降りかかる危険性があることから、国家が他の兵器を優先的に使用していると考えられる。また、暗黙知や運用上の障壁が、生物兵器の配備を見た目よりずっと困難にしていることも考えられる。

だがその答えは、単にデータが少なすぎるということなのかもしれない。病気の発生や、戦争による死、テロ攻撃などの事象ははすべて冪乗則に当てはまると考えられる。それは、中央値に大多数のデータが集まる「一般的な」傾向とは異なる。冪乗則では、大規模な出来事が起こる可能性を含む「ヘビーテール」の分布が見られ、その部分に千倍、百万倍と、全く規模が異なる出来事が起きる可能性が含まれている。戦争やテロによる死は、このヘビーテール付きの冪乗則にあてはまり、ごく僅かな大事件によってその大部分がもたらされた。例として、過去百年間における戦争による犠牲の大半は、2つの世界大戦によって生まれた。テロによるアメリカ人の死は、ほとんどが9.11による犠牲だった。このような系統の事象においては、過去の一連の出来事を平均的に見ることで、今後起こりうる事象の危険を体系的に実際より低く見積もってしまうことになる。もし、基本的にリスクの大きさが変化しないとしても、だ。

また状況は変化している。過去の事例だけを頼りにしていると、急変するバイオテクノロジーの実態を見落としてしまう。私たちが警戒すべきは、二十世紀の生物兵器ではなく、今後百年で改良しようとしている生物兵器なのである。人類は百年前にウイルスを発見したが、当時は遺伝子の構造まで明らかになっていなかった。今や、ウイルスのDNAを作製でき、遺伝子配列から過去のウイルスを甦らせることができる。百年後、私たちはどうなっているのだろう。

バイオテクノロジーのもっとも心ときめくトレンドの一つは、急速な民主化であろう──学生やアマチュアでも最新鋭の技術が導入できるようになった──その展開の速さである。テクノロジーでブレークスルーが起きると、才能、訓練、資源、忍耐力ある大勢の人がそれを再現しようと一斉に集まる。ごく一部の世界トップレベルの生物学者から、同分野の博士号を持つ者、生物学学部修了した何百万へとまたたく間に広がっていく。

ヒトゲノム計画は、生物学において史上最大の科学的共同研究だった。13年の歳月と5億ドルの費用をかけて、ヒトゲノムの塩基配列は完全に解読された。それからわずか15年後には、ゲノムの解読は1,000ドル以下の費用、あるいは1時間あれば処理できるようになった。また、その逆も作業も容易となった。誰もがオンラインDNA合成サービスを利用し、選択したDNA配列をアップロードし、それが組み立てられ、送り返されてくる。高額であるとはいえ、その費用も1,000分の1までに落ち、ここ20年で下がり続けている。クリスパーおよび遺伝子ドライブが史上初めて使用されたことは、ここ十年でのバイオテクノロジーの成果であった。しかし、そのわずか2年後、科学コンテストに参加する優秀な学生たちによってそれらは巧みに利用されている。

このような民主化は、バイオテクノロジーの起業家的ブームの火付け役となるだろう。しかし、バイオテクノロジーは誤用すると致命的結果を招く危険があることから、民主化は同時に、拡散の意味合いを持つ。ある技術にアクセスできる人が増えれば増えるほど、その中に悪意を持つ人が含まれる可能性も大きくなる。

幸いなことに、地球規模の破壊を企てようとする人はこの世にほとんどいない。だが存在はしている。おそらくそれを最もよく表しているのは、1984年から1995年にかけて活動し、人類の破壊を企てた日本のオウム真理教であろう。オウム真理教は、数千人を会員として誘引し、その中に科学や生物学の高度な技術を持つ人も含まれていた。そして、厭世的な思想を持つだけの集団でないことを社会に示した。VXガスやサリンを使った複数のテロを引き起こし、22人の死者と数千人の負傷者を出した。炭疽菌の兵器化も試みたが、成功しなかった。だが、世界規模のパンデミックを実際に起こすことのできる層が拡大し、やがてはこのような教団が含まれるほどその輪が拡大したらどうなるのか?あるいは、テロ組織の一員やならずもの国家が恐喝や抑止の目的で、全人類殺戮兵器を開発しようとしたら一体どうなってしまうのだろうか?

今後数十年の主要な生物学的リスクは、私たちの生み出したテクノロジーから生じるものであり、特に、国家や集団による悪用が考えられる。だが、世界がこのような危険に何も知らずにのほほんとしているわけではない。1955年、バートランド・ラッセルは、生物兵器による絶滅について、アインシュタインに宛てて手紙を書いている。また、1969年にアメリカのノーベル医学賞受賞者のジョシュア・レダーバーグが可能性をこう指摘している。

私は一人の科学者として、アメリカやその他国々が生物兵器開発に関与し続けることを憂慮している。このような一連の行為が、まさに地球上の人類の命を危機に晒している。

このような警告を受け、人類を守るための国家や国家間の取り組みが始まっている。公衆衛生、国際条約、バイオテクノロジー企業や科学界の自主基準を通じた活動が展開されている。だが、これで十分と言えるのだろうか。

医学と公衆衛生の発展に伴い、衛生管理から、感染症監視システム、予防接種、治療に至るまで、感染症発生時のリスクを低減する数々の手法が発達した。成果に天然痘の根絶が挙げられるが、これは人類最大の偉業の一つである。公衆衛生における国や国際的な取り組みによって、私たちは人工的パンデミックからも多少は保護されていると言える。人工的パンデミックにより良く対処するために、既存のインフラを適応させることはできるはずだ。しかし、現存する危険に対しても、保護は不平等に供給され、十分でない。世界の健康問題は、その重要度から考慮すると資金不足の状態が続いており、貧しい国々ほど感染症発生時に被害を受けやすい状態にある。

最もよく知られている国際的防護策は、1972年に始まった生物兵器禁止条約(BWC)によるものでないだろうか。生物兵器を国際的タブーとすることの象徴であり、また国際社会に継続的な議論の場を提供している。しかし、BWCが生物兵器を法的に禁止することに成功したと考えるのは誤りである。二つの大きな課題がBWCの機能を制限し、指名を全うするのを妨げている。

第一に、資金が深刻なほどに不足している。世界規模の人類を守る条約には、わずか4名の職員しか雇用されておらず、その予算も平均的なマクドナルド以下である。

第二に、その他兵器(核兵器や化学兵器)を規制する条約とは異なり、遵守状況を検証する効果的手段が存在していないことである。これは理論上の問題だけではない。ソ連の膨大な生物兵器開発計画は炭疽菌や天然痘の致命的な事故を起こした。また、そればかりかBWC調印後に20年近くも開発が継続されていたのである。これは、条約が生物兵器の研究開発を終わらせることができなかったことを証明している。また、条約の違反者はソビエトだけではなかった。アパルトヘイト廃止後、南アフリカはBWCを違反し、生物兵器事業を運営していたことを明らかにした。第一次湾岸戦争後、イラクの条約違反が見つかった。執筆時点で、複数の国がBWCに違反し生物兵器開発を行っている可能性があるとアメリカ政府が明らかにしている。イスラエルは条約に署名することさえも拒んでいる。また、条約は、国家以外の行動主体からの脅威に対しては保護をほとんど提供しない。

バイオテクノロジー企業は、民主化の負の影響を抑えようと努力している。例えば、DNA合成が解禁されれば、悪者が極めて致命的な病原体を作り出すための大きな障壁が取り除かれることになる。天然痘のような管理下にある病原体のDNA(ゲノムはインターネット上で容易に手に入れられる)にアクセスし、DNAを改良してより危険な病原体を作り出せるようになってしまう。そのため、多くの合成サービス提供者は、このリスクを管理するために、危険な配列がないか受注内容を検査している。しかし、その検査方法も完全ではなく、注文分の8割程しか対応できていない。このプロセスには、大いに改善の余地があり、検査義務化の必要性を強く感じさせる。卓上に置けるような大きさの装置が社会に普及すれば、課題はさらに増えるだろう。技術の悪用を防ぐには、配列が確実に検査を通過するようにソフトウェアやハードウェアでロックする必要があるかもしれない。

科学界が生物学的リスクをどのように慎重に管理対応していくのか、先行きを注視していくべきであろう。国家や集団が使用できる危険な技術の多くは、オープンサイエンス(開かれた科学)に帰するものだ(下枠内の記事を参照)。これまで、科学が相当な事故のリスクを生じさせることを確認してきた。科学界は危険な研究が行われないよう規制をかけようとしたが、効果は限定的だった。それには様々な要因が挙げられるが、例えば、どこで線引きをするべきなのか判断が難しいことや、実践を統制する中央機関が不在であること、科学界にあらゆる関心事を追究する自由で開かれた文化が根付いていること、科学の発展のスピードにガバナンスが追いついていないことなどが挙げられるだろう。科学界がこれらの課題を克服し、地球規模のリスクを強力に管理していくことは可能かもしれない。しかし、そのためには、バイオテクノロジーの安全性を原子力のものと同じくらい厳重に扱うなど、文化やガバナンスに対する改革を積極的に受け入れる姿勢が求められる。科学界は、大惨事が起きる前にその積極性を見出す必要があるだろう。

情報ハザード

研究所から漏れるのは病原体だけではない。これまでのところ最も危険な例は微生物ではなく、情報である。即ちバイオハザードではなく、情報ハザードだ。これは、自由に入手できる危険なデータ──例えば、天然痘やスペインインフルエンザのゲノムの公開データかもしれないし、あるいは、危険なアイディア──例えば、ゲノムから天然痘やスペインインフルエンザを甦らせる技法(これまでの物質的アクセスを制限する試みをすべて台無しにする)の公開データといったものかもしれない。これらは一度公開されば、あらゆるウイルスと同じように、遠くまで拡がり、根絶に抵抗を持つ。

BSL-4実験室は微生物が外へ漏出しないよう設計されている。その一方で、科学界は遠く拡散させるようにできている。情報を広く開放する自由な精神は、科学の実践と精神の真髄とも言え、危険な情報の拡散を防ごうとする文化や決めごととの間に絶えず緊張を生み出している。有益な情報と危険な情報の境界線がはっきりしていないか、議論の余地がある場合において、この傾向が顕著にみられる。

科学者は、自ら考え、権威に異議申し立てするよう後押しされる。しかし、全員がそれぞれ独自に研究出版による利益が代償を上回るかどうか見積もった場合、「一方的行為の呪い」と呼ばれる、危険な行為へ踏み切る偏った見方に実際は行き着いてしまう。たとえ、圧倒的多数の科学者が、利益より危険が大きいと判断した場合でも、過度に楽観的判断をする科学者が一人でもいれば、情報は公開されてしまう。良識に基づいた科学の実践に反し、たった一人の異常値によって、科学界の意思決定がなされてしまうのだ。

情報が公開されればそれが最後、何をしても無駄である。公開済みの情報を抑制したり、当事者を公然と非難したりすると、ますます注目を浴びてしまう。実際のところ、用心深い人々が目を光らせているのは、別の形の情報ハザードである。アルカイダは、西洋社会が生物兵器の威力と容易さを世に警告したことを機にバイオテロの道へと歩みだした。また、第二次世界大戦中の日本の生物兵器計画(中国に対し腺ペストを使用した)は、生物兵器の使用を禁止する条約に直接触発された。西欧列強が使用を法的に禁止にするほど、生物兵器は強力であるに違いないと考えたのだった。

また、何らかの可能性を悟るだけでも十分危険な場合もある。悪意を持った者は、心底からそれを欲し追い求め、限界まで資源をつぎ込むことを恐れない。

誤用リスクに対する事故リスク率が高いことから、情報ハザードはバイオリスクにおいて特に重大だ。また影響を受けるのは生物学者だけではない。現在の社会の脆弱性や、最新技術による危険を探知する一方で、バイオセキュリティ界自体も危険な情報を発し続けている(原稿を書いている最中にも、それを痛いほど感じた)。これは人類を守ろうとする人々の仕事をさらに困難にしている。

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