This is a Japanese translation of “Why I find longtermism hard, and what keeps me motivated”
by Michelle_Hutchinson 23rd Feb 2021
長期主義的な活動に取り組むことは、感情的に言って難しいことだと感じます。今日の世界には深刻な問題が数多くあります。いったいどうしたら、身の回りの至る所に存在する苦しみから目をそらし、長期的な未来がうまくいく手助けをするなどという抽象的なことを優先させられるでしょうか?
長期主義的なアイディアを実践に移そうとする人の多くは、この点で苦労しているようです。私が長年一緒に仕事をしてきた人たちの多くもそうでした。私自身も例外ではなく、いま起きている苦しみの引力から逃れることは簡単ではありません。こういった理由から、私がこの課題にどのように取り組んでいるか、また、さまざまな困難があると感じながらも、思索的な介入策に取り組むモチベーションをどのように維持しているかについて、いくつか共有できればと思います。
この問題は、EAにおけるより大きな問題の一面といえるでしょう。つまり、感情的には魅力を感じられない場合でも、重要な活動をするモチベーションをいかにして高めるのかということです。自分の感情を明確に理解することは、自分が支持する感情や信念と、よく考えたら、自分の行動の規範にはしたくない感情や信念を区別するために有効です。
難しいと感じていること
最初に断っておきたいのですが、誰もが私と同じ理由で、あるいは同じように長期主義的な活動に取り組むことを困難だと感じていると主張したいわけではありません。また、私は80,000 Hoursという組織を代表して発言しているわけでもないということも明確にしておきたいと思います。
私自身が取り組んでいない活動に対する葛藤は、貧しい国々で予防可能な病気によって苦しんでいる人々の存在が中心となっています。このことは、私が効果的利他主義に出会ったとき、最初に取り組んだことと大きく関係しています。ある人にとっては、工場式畜産農場における野蛮な慣行を防ぐために積極的に活動していないことの方が深刻な問題です。長期的な未来に焦点を当てることが難しいと感じる理由は様々あると思いますが、この記事でそれら全てについて話すつもりはありません。この記事の目的上、特に私自身の経験に焦点を当てていきたいと思います。
いま生きている人を助けたいという気持ちが強い
今日の世界における苦しみの大部分は、はっきり言って存在するべきものではありません。安価な予防策や治療法を求めて人々は苦しみ、死んでいるのです。豊かな国々が完全に根絶することができた病気が、いまだに世界中で何百万もの人々を苦しめているのです。安価な介入策(例:殺虫剤処理された抗マラリア蚊帳)の有効性を支持する強力な証拠は、すでにそろっています。一方で、豊かな国に住む私たちの多くは経済的に恵まれており、収入のかなりの部分を必要性のない商品やサービスに費やしているのです。この不条理で防ぎようのない不公正を前にしながら、私がすべきことはこの状況を改善することではない、と信じるのは非常に困難です。
同様に、自分の町にいるホームレスの人や、自分の国で違法に投獄されている人など、地理的に身近な人々を助けることは私がすべきことではない、と信じるのもなかなか難しいものです。目に見える、防ぐことのできる苦しみがあるのに、その苦しみを撲滅するための行動を私自身は起こしていないという事実と向き合うのは簡単なことではありません。
私にとって、いま生きている人を助けることを後回しにして、未来の人を助けようとすることは、自分の国の人を助けることを後回しにして、地球の裏側の人を助けようとすること以上に難しいことです。それは、「現代の私たちが未来を良くするために行動しなかったとしても、未来を良くしてくれる人が今後やってくるだろう」という意識にも由来しています。それとは対照的に、「現代の私たちが今日の世界の貧困層を救う行動を起こさなくても、後から来た人たちが援助を申し出て、私たちの代わりに助けてくれる」ということはありません。今年、私たちが救えなかった命は、必ず失われ、惜しまれることになるのです。
長期主義を難しく感じるもう一つの理由は、富が時間とともに急激に増加していることにあります。つまり、未来の人々は現在の人々よりもはるかに豊かであると信じるに足る十分な理由があり、未来の人々は現在の人々ほど私たちの援助を必要としていないだろうと考えられるのです。この点は、地理的に遠く離れている人を助けるケースには当てはまりません。
長期主義の主張に感情面で魅力を感じられない
いま生きている人たちの生活を向上させようとする動機は、私たちの心をつかむものです。というのも、これらは明らかに私たちに課せられている重要な義務であり、その力はより強力な義務によってのみ弱められうるからです。それに比べて、長期的な視点に立つことはかなり思索的に感じられ、複雑な議論を慎重に検討することが必要になります。
以下に、私が長期主義の論拠をどう見ているか、また、これらの論拠を頭では理解できても、未来ではなく現在の苦しみを和らげるべきだという私の感覚が小さくなることがないのはなぜか、について説明します。これは、なぜ長期主義的な課題に焦点を当てるべきなのかを厳密に述べることを意図したものではないとお断りしておきます(これについては80,000 Hoursが別の記事で触れています)。
人間を含む有感生物の未来は、想像を絶するほど大きな可能性を秘めています。つまり、もし私たちが未来に対して永続的でポジティブな影響を与えることができる可能性がほんの少ししかなかったとしても、その可能性に賭けてみる価値は十分にあるのです。
私たちが長期に影響を与えうる手段の一つは、生命の絶滅を防ぐことです。現在を生きる人々が、これから生まれて来るすべての人々を絶滅させる可能性があるということは、私たちが何もしなくても、後から生まれて来る人々が未来を改善できるだろうという考え方が、間違っていることを意味します。また、未来の人々が私たちよりも豊かになるかもしれないということとも無関係になります。
また、絶滅ではなく、全体主義的な体制が固定化することで、未来における価値が不可逆的に抑制される可能性も考えられます。言い換えれば、未来人は存在しても、私たちの介入がなければ非常に悪い状態になる可能性があるということです。
私は、このような悲惨な結果が実際に起こり得ると思っていますし、この種のリスクは、私たちが調査し、軽減することができるかどうかを考えるべきものだと思います。実際、社会がこの種のリスクにうまく対処できないと考える理由はたくさんあります。例えば、企業には短期的に儲けようとする動機があり、政治家は数年後に再選されることを望んでいます。個々人も(自分の将来についてさえ)計画を立てるのが苦手な傾向にあります。
これらの主張は理にかなっており、もっともだと思っています。私は、長期的な未来を改善するための取り組みを優先すべきだと信じています。
にもかかわらず、これらの主張はまだ憶測の域を出ないように感じられてしまうのです。たとえそれが正しいとしても、私が実際に何らかのインパクトを与える保証はありません。現代の法律における将来世代の代表性を高めたり、地球規模の優先課題研究の量を増やしたりすることが考えられますが、そのインパクトの大きさは不確実で、ましてやただ単に何か一つ実践しようとするだけでは大した意味がないでしょう。うまくいかないかもしれないとわかっていながらも、大きなプラスの変化をもたらす可能性に賭けるしかないのです。そのため、例えば蚊帳を分配するために寄付をするのではなく、長期的な施策を選択することは、他人の命でギャンブルをしているような気がして落ち着かないのです。
私がこの困難にどう対処しているか
これらの問題を考えると、自分がやるべきだと思うことに取り組む気が起きないこともあります。私の励みの一つは、効果的利他主義が難しいと感じられるのとまさに同じように、長期的な視野で活動することは難しいと感じられるということです。どういうことかというと、問題が切実であればあるほど(そして、その問題に取り組むことが魅力的に映れば映るほど)、その問題に取り組んでいる人々はすでにいると考えられるということです。だから、最も差し迫った問題に取り組むということは、他の問題に取り組むことほど緊急性や重要性を直感的には感じないと考えるべきでしょう。もし直感的に感じられるのであれば、その問題は軽視されていないはずです。
日々のモチベーションに最も影響するのは、私が深く尊敬し、大切に思うチームの一員である、ということです。周りの人を幸せにしたい、同僚をがっかりさせたくないという気持ちがあるからこそ、頑張れるのです。同僚と必ずしも同じ価値観を共有している必要はありません。もし私が寄付をするために稼ぎ、収入を維持(あるいは増加!)するために仕事をうまくこなす必要があるとしたら、高い水準で仕事をし、会社の成功に関心を持つ同僚がいることが励みになると思います。その人たちを失望させないために、自分も頑張ろうという気持ちになれるのです。
もうひとつ、私のモチベーションに大きな変化をもたらしているのは、どのような課題や介入が最も急務であるかについて考え、議論し続けることです。私のやり方としては、自分が取り組んでいることが間違っているのではないかという直感的な不安を、思いつくままに表現し、自分と同じような価値観を持つ人たちと議論します。そうすることで、直感的にはそう感じるけれども、最終的には確信を持っていない自分の意見と、実際に支持し、擁護することができる自分の意見が見えてくるのです。
また、他の問題に取り組むべきだと示唆する論考を読んで、そういった考え方に触れ続けるようにしています。特に、直感に反する考え方を問い続け、それを具体化することが重要です。なぜなら、自分が夢中になっている時の直感は頼ることはできないからです(その直感はすでに、あなたが正しい道から外れていると考えているでしょう!)。
とはいえ、自分の方向性や仕事について疑問を持ち続けていると、混乱してきて、やる気をなくすでしょう。なので、新しいプロジェクトに取り組もうとするときや、大きく方向転換しようとするときが、疑問を持つ重要なタイミングかもしれません。(個人的には、EAフォーラムなどで出てくる面白くて新しい議論の動向をおさえておくことも楽しいと思っています。)
また、最も効果的な活動をするために具体的な取り組みを行っていることも、私の助けになっています。私は「Giving What We Can」のメンバーで、最も効果的に世界を良くできると思う団体に収入の10%を寄付することを誓約しています。実際には、誓約した金額に少し上乗せして、毎年寄付をしています。食べた肉の分を相殺するために動物保護団体に寄付したり、また、世界の貧困を改善すために何もしていないと感じるのは嫌なので、国際開発団体(通常はマラリア対策基金)に寄付したりしています。しかし、10%に関しては約束した通り、あらゆることを考慮した上で、最も良い結果を期待できると思ういくつかの団体にいつも寄付しています。
もっと複雑な心境になるのは、未来における被害や恩恵の欠如をより具体的に感じさせる手法です。例えば、無謀な生物兵器戦争の結果、人工的なパンデミックによって人類が滅亡し、身近な宇宙から知的生命体がいなくなった状態がほぼ永劫に続くと想像するのです。このような例は、直感的に理解できるものを与えてくれ、将来の被害も現在の被害と同じように現実的であることを気づかせてくれます。
このアプローチに対する私の懸念のひとつは、世界にとって恐ろしい結果は非常に多く考えられるため、特定の顛末に固執することでミスリードされてしまう可能性があることです。そうすると、自分が意図していないところで、自分の行動に影響が出てしまうかもしれません。これを避けるためには、具体的でポジティブな結果を思い浮かべると良いかもしれません。宇宙に広がる豊かな世界をイメージするのです。個人的には、このやり方ではモチベーションがあまり上がらないと感じることが多くあります。というのも、現在の私たちは、喜びよりも苦痛を感じることの方が圧倒的に多いと私は思っているからです。
これらのテクニックに加えて、同じようなことを考えている人が周りにいることは、大きな助けになると思います。何がうまくいくのかについての具体的な候補を共有することができ、難しいと感じているのは自分だけではない、という安心感も得られるでしょう。そういった点で、効果的利他主義コミュニティに参加することは、オンラインであれ(例えば、EAフォーラム)、対面であれ(私は幸運にも、たいてい自分が住んでいる地域に盛んなEAグループがありました)、私にとっては重要なことです。
自分の中で激しい葛藤が生じ、正しいことをするのが難しい時は、長期主義にまつわるあらゆる不確実性の中でも、ひとつ私が確信していることがあるという事実に立ち戻るようにしています。それは、私は、いま生きている人々を大切に思っているのと同じように、未来の人々を大切に思っているということです。たとえまだ赤ちゃんが宿っていなくても、その赤ちゃんを守るために蚊帳を送ろうと思いますし、何十年も先の子どもたちのために、いま、小児科医を育てようと思うのです。
今後、たくさんの人が生まれてくるでしょう。しかし、彼らは自分で自分のことを擁護することはできません。いまの社会は、将来世代の存在をほとんど完全に無視しています。将来の人たちを写真で確認することはできませんし、実際にどのようなことが彼らの悩みの種になるのか、そもそも彼らは生を受けることができるのかすら、まったくわかりません。しかし、私は自分のキャリアを活かして、願わくは、将来を生きる人のために何か良いことができると思っています。そして、それこそが私のすべきことだと信じています。